こんにちは。
今回は初めての書籍紹介をしてみたいと思います。
なんとか、皆さんに読んでみたいと思わせることができるように
本の魅力を伝えていきたいです。
そして本日紹介する書籍はこちら!
皆さんも一度は聞いたことあると思います
嫌われる勇気を紹介します。
さて、まず確認ですが、
聞いたことがある方も多いと思われるこの本、
どんな印象をお持ちでしょうか?
どうせ
"嫌われる勇気を出して自分の意志を持て!"とか
"イエスマンになるな!"とか
そう言う話でしょう?
と言ったような印象を持たれている方は多いのではないでしょうか?
だとしたら読めばわかるのですが、
そんな単純な話ではないです!
いや、と言うかそんな当たり前のことをドヤ顔で語るその辺の自己啓発本とは違うのです。
当たり前のこととは言いましたが
それができないから人は苦しんでいます。
そして苦しんでいるから
そう言う自己啓発本に救いを求めるんですよね?
でもできない、何故なのか。
なるほど!と言って意識してみても
何も変えられずに結局悩み続ける。
そういうものです。
そもそもなぜ悩んでいるんでしょう?
何を解決すれば幸せになれるんでしょう?
解決するには、どうすれば良いんでしょう?
考えれば考えるほど分からない...。
だから悩んでるんですよね。
そういう人には、是非読んでほしいのです。
この本は、フロイト、ユングと並んで
心理学の世界三大巨頭に位置付けられるアルフレッド・アドラーの教えを、
心理学カウンセラーであり哲学者でもある岸見一郎という方が
対話方式で書いたものです。
この対話では哲学者(哲人と言われています)と若者が
人は変われるか。誰にでも幸せになれるのか。
ということについて議論を展開していきます。
人類最大の課題とも言えるこの課題を、
哲人はどのように語るのでしょうか。
哲人は最初に
"人生は変えられる、人は誰でも幸せになれる。"
という結論をその若者に叩きつけます。
人は変わらないという
持論を持ったその若者は
当然納得いかず、反発します。
人は変わらない、
ここに立っている自分自身が
変わりたくても変われずに苦しんでいるのだ。と。
若者は厳しい家庭に育てられ、
3歳上の兄といつも比較され、悪いように言われて育ちました。
"兄はこんなにできるのに、お前は何故こんなこともできないのだ"と。
そして愛を受けずに育った自分には
幸せになることは不可能だと、若者は悩み続けていました。
だからこそ、そんな持論を持った哲人を
論破してやろうと、万が一できなかったらその時は
自分にも幸せになれる可能性があるのだろう。
ただ万が一にもそんなことにはなり得ないと。若者は思っていました。
哲人は、若者に対してこう言います。
過去のトラウマが現状を作っているのではない。
何かの目的があって、その目的に沿った理由づけとして、過去の出来事を選んでいるだけだ。と。
当然、若者は納得できません。
そんなはずはない、物事には必ず原因がある。
そう言い返します。
しかしそこで哲人は言います。
今のままでいるのが楽だから、
過去の経験を言い訳にしているだけだ。
必ず目的があり、過去はその目的を正当化するための道具でしかない。と。
行動したら失敗するかもしれない。
だから現実を見てがっかりするより、
何もせずに自分の可能性に生きていたいだけなんだ。
そして可能性を潰さないように、現状維持を心の底で望んでいるんだ。
あれのせいでできないから仕方ない。あれがなければ自分だってできるんだ。と。
あなたは変わりたくても変われないんじゃない。変わる勇気がないんだ。と。
そしてその正当化の為に過去の経験を原因として何もしないでいることを
アドラーは"人生の嘘" と呼びました。
若者としてはぐぬぬという感じです。
私もぐぬぬぬぬという気持ちでした。
ここで勇気という言葉が出てきました。
出てくるや否や、それはそれは鋭く心に突き刺されました。
いや確かに、確かに勇気がないだけなのかもしれない。
でも、じゃあ実際に何をすれば変われるんですか先生!
若者はすがるように聞きます。
私も心の中では、若者の横ですがるような気持ちで、
哲人を睨みつけていました。
ここで哲人は、
ここからは長くなります。今夜は遅いので明日にしましょう。
と勿体ぶります。笑
勿体ぶるなよ先生!と私は思いました。
若者もここで"逃げるわけじゃないですよね"と言っていますが、
きっと実際に夜遅かったのだから仕方ないですね。
そして続けて哲人は、
次は"自由"についての議論になるでしょう。
そう言って次の章に進みます。
こんな展開で、
このタイミングで本を置いて寝れる訳ないですよね。笑
おかげで寝不足確定です...。
自由についての議論。
どのように始まるのでしょう。
最初に哲人は次の命題を
若者に投げつけます。
"全ての悩みは、対人関係の悩みである。"と。
若者としては納得いきません。
全て?すべてが人間関係?
いや、私の悩みは私個人で完結する悩みですよ!
既にその理論は成り立ちません!と。
私も納得いきませんでした。
人は自身のことについて悩み、悲嘆するのだ。
見た目、性格、境遇、お金、
全部個人の問題ではないか!
対人関係なんて今はどうでも良い!
しかし哲人は即座にそれは違うと一掃し、こう問いかけます。
もしこの宇宙に自分一人しか存在しないとしたら、
それらの悩みは発生するだろうか?
ん?宇宙に一人?
なんか壮大すぎてイメージ湧きにくいな...。
無人島に一人で行ったのじゃダメなのか?
と思っていたらそれじゃあダメ見たいです。
無人島にいたとしても外にいるほかの誰かのことを
考えることもできてしまいます。
そうではなくて、宇宙にただ一人、
そもそも他人という概念がない、
人間という存在は自分一人という状態。
最初から一人だからもはや孤独という概念すらないという状態
のことを言っているんです。
その状況であれば、
今持っている悩みなんて生まれようがない
と、哲人は言います。
人の悩みは
他人と比べることで
発生してしまうのです。
背が低い、
性格が悪い、
太っている、
お金がない、
それらは全て、人と比較しています。
比べるベースがなければ低い・高い、良い・悪いというのは判断できません。
もちろん、他人という概念を一度持った以上
その概念が無くなるということはあり得ないですし、
人間が一人ということはあり得ないです。
ただ確かに、
もし、もし誰一人として他人が存在しないのなら
そんな悩みはないのかもしれません。
だからこそ、
全ての悩みは対人関係の悩みである
と言えるのです。
じゃあ人間関係をどのように捉えれば悩まずに済むのだろう?
という話になりますが、
その問いに対して哲人は
”課題の分離”という考え方を提示します。
要するに、
その事象は自分が解決すべき課題なのか、
他人が解決する課題なのかをしっかりと判断し、
他人が解決する課題についてはそれ以上関与しない。
なぜならそれは自分がどうこうできる事ではなく、
他の誰かによって決まるものだから。
という考え方です。
例えば自分が電車に乗っているときに
誰かに席を譲ったとします。
その際に譲った相手が自分に対してお礼を言わなかったとしても、
それは自分の課題ではないので気にしてはいけない
と言うのです。
いやいや、お礼を言わないなんて失礼じゃないか!
と思いますよね。
ただ、席を譲るのはお礼を言われるためではないはずです。
あくまでも席を譲るのは、その相手が必要としていると自分が判断したからです。
その人が席に座れることで助かればいい。そう思ったからであるはずなんです。
その信念に従って自分は行動に移した、自分の課題はクリアした。
そういうことです。
反対に、お礼を言われるためだけに行ったことなのであれば、
お礼を言われないのならやらないという考えなのであれば、
それは人のためではなく、自分のために行っている偽善なのです。
確かにお礼を言わないことは失礼にあたるかもしれません。
周りにいる人もきっとその相手のことをそういう目で見るでしょう。
ただしそれはその相手の課題だと、自分がどうこうすべきことではないと
哲人はいいます。
自分は他人のために生きているのではないし、
他人もその人以外の期待を満たすために生きているのではないのです。
また、課題の分離の基準については次のように言っています。
その行動や事象の結果最終的に責任を負うのは誰か。
なるほど。
お礼を言わなかったことで最終的に責任を負わされるのはその人自身だ
ということですね。
そして、例え親であっても、子供の勉強を強要してはいけないといいます。
勉強をせずに最終的に責任を負う(困ったことになる)のはその子供自身なので、
例え親であっても勉強を強要してはならない。というのです。
ただし、その子供が正しい判断をするサポートをしなければならない。
と言います。
サポートをしたうえで、最終的な判断はその子供本人に委ねる。
それが課題の分離です。
さらにアドラーは
このサポートを"勇気づけ"と称しています。
ここでも出てきました。勇気です。
やっぱり大切なのは勇気なのです。
子供が勇気を出せるように、
失敗してもまた挑戦できるように、
サポートをしてあげましょう。
最終的に自分が責任を負わなければならないこと、
先の見えないことを自分で判断するのはとても勇気のいることです。
誰かに頼らず、最終的には自分の責任で物事を判断しなければなりません。
とても難しいことですが、それができるようになることを
アドラーは"自立"と呼び、それが大人になるということだと語っています。
課題の分離は、勇気を試されることなのです。
若者は言います。
課題の分離を推し進めてしまうと、人との絆を断ち切ることになってしまう。
人間の感情を無視していては、良好な人間関係は築けないではないか。
自分の思うように生きるのは難しいことだ。
だからこそ他者の目を求め、他者の望みを道標に生きていくのが楽じゃないか。と。
しかし哲人はこれも真っ向から否定します。
課題の分離は対人関係のゴールではなく入り口なのだ。
差し伸べれば手が届く、ただし相手の領域には決して踏み入らない。
そんな適度な距離が必要であり、親子のような近い関係なのであれば
尚更注意が必要なのだ。と。
しかし若者は納得いきません。叫ぶようにこう言います。
いや、じゃあ子供はどうすればいいんですか。
親の意見に従わずに生きて、どこに向かえばいいんですか!
誰もが確かな目標をもって生きているわけじゃないんですよ!と。
他者の目は自分の道しるべなんです!と。
哲人の切り返しはこうです。
他者の視線を気にして生きること、誰かの欲求に応えるように生きること、
それは不自由な生き方だ。
他人に認められたいという欲求を承認欲求と言うが、要するに誰にも嫌われたくないだけなのだ。
つまりアドラーは、承認欲求を完全否定したのです。
一人一人全員の期待を叶えるように生きると必ず矛盾が生じる。
人によって望みが違うのだから、その全てを実現するのは不可能なのだ。
しかし嫌われたくないあまり、そのすべてにYESと言ってしまう。
実現不可能なことにYESと言い、結果的に信用を失うことになるのだ。と。
他人ために生きるというのは楽をすることです。
誰かの理想像であることを追い求め、
その誰かの目標に向かえば良い。
行き先が間違っていたとしても自分に責任はない。
そのレールを敷いたのは自分ではないのだから。
自分で行き先を決め、レールを敷き、走って行くのはリスクがあります。
失敗するかもしれないし、誰かに迷惑をかけるかもしれない。
それを考慮した上で自分の責任で適切な判断をし、決断をする。
間違っていれば責任を取るのは自分、そしてその影響は他人にも及ぶ。
そんなことは勇気なしにはできないでしょう。
本能や衝動に従うことを傾向性といい、
その傾向、つまり自然に起こる力に抗い、自分の意志で行動するのです。
自由とは、そういうことなのです。
もし自由に生きる人を悪く言う人がいればそれは、
不自由な生き方を選んだことを正当化する為の人生の嘘なのでしょう。
何をしても自分を嫌いな人はいるし、何をしても自分を好んでくれる人もいる。
どちらになるとしても、それは自分の課題ではなく、それぞれその人の課題なのです。
一方嫌われることを恐れるかどうかは、自分の課題です。
わざわざ嫌われることをする必要はないが、
嫌われることを恐れる必要もないのです。
あくまでも、課題の分離を徹底しなければなりません。
"相手はどうするのか"ではなくて、"自分がどうするか"に焦点を当てるのです。
若者はその後課題の分離について一晩考え、
課題の分離はやはりおかしい。人との関係を切り離し、
人を孤独に追いやる危険な考えだ。
という結論に至りました。
次の日もう一度哲人を訪れてこの結論をぶつけます。
すると哲人はこのように回答をします。
アドラー心理学を個人心理学というが、
この個人というのはこれ以上は分割できない最小単位のことである。
アドラーは個人の精神と身体、理性と感情、意識と無意識のそれぞれは
実際には分割して考えることのできない一つの繋がりだと言っている。
それらは必ず目的に沿って動き、自分で変えられる物なのだと。
そして、課題の分離から始まる対人関係の最終目標は決して孤独などではなく、"共同体感覚"と言うものなのだという。
共同体感覚...?
若者、私を含み誰もがそう思ったでしょう。
これまでは一応聞いたことがある単語が並んでいたが、
今度ばかりは聞いたこともない。
そして哲人はアドラー心理学を理解する上での鍵概念だと言います。
共同体感覚とはどのような概念なのだろうか。
共同体と聞くとコミュニティグループといったような
一つの集まりのようなイメージだと思います。
しかし、アドラーのいうこの"共同体"というのは宇宙、過去、無生物をも含めた全てであると哲人は語ります。
これも同じく、若者、私を含み誰もが声を揃えるでしょう。
"...は?"と。
いやいや、宇宙が共同体の一部とはどういう事なんだ?と。
言うに、共同体、つまり社会の最小単位は2人であり、”私達”という感覚である。だそうです。
そしてその共同体の感覚の範囲を広げていくと、
家族だったり、学校や会社、はたまた社会全体だったり、
最終的には宇宙全体に辿り着く。
そして人間だけには留まらず、動物や無機物までもが共同体の一部という感覚になるのだ。ということです。
ペットとしている動物ならまだなんとなく理解できますが、
目に見えないもの、宇宙や無機物はおろか、
社会全体を一つとして捉えるという感覚も難しいですよね。
社会が一つの共同体だと言うのは理解できるんですが、
それをまとめて"私たち"とする懐の深さはなかなか持てないです。
でも共同体感覚というのは、要するに主語が"私たち"に変わる事だというのです。
カップルの場合は私とパートナーではなく、私たちとするのです。
まだわかりにくいですね。
例えば、損得を考える場面が仮にあるとしたら、
自分は得をするけどパートナーは?ではなく、
私たちは得をする。と考えます。
もちろん、パートナーと共に得して初めて"私達の得"と言えるのです。
それなら、利己的になんてなり得ませんよね。
共同体の中のみんなの幸せが、私の幸せなのです。
それが、一つの共同体であるという感覚なのです。
また、哲人はこのように言います。
あなたの人生の主人公はあなた自身だが、世界の主人公はあなたではない。
皆それぞれがそれぞれの人生の主人公で、
世界に出ればそれらは全て共同体の一部に過ぎないのだ。と。
それぞれの主人公がそれぞれの物語を決める。
そう考えれば、課題の分離も合点がいくような気がします。
他の物語の課題は、その物語の主人公が解決する話ですもんね。
アニメでは物語に他の主人公が登場するコラボ企画が
たまーにありますが、(テンション上がるやつです)
人生にはコラボ企画は存在しません。
あくまで人の物語に介入や乱入はせず、くっつき過ぎず、
それでいていつでも手の届く距離を保つのです。
そしてその共同体の範囲には限りがなく、
無限に広げることができます。
そういう意味で、宇宙全体が共同体の一部なのです。
共同体感覚については理解できました。
目の前の小さな共同体しか見えなくなってしまうと、
その中での常識に留まってしまう。
一方、一歩共同体のそとに出ればその常識は通じず、
全く新しい世界が広がっている。
例えば学校の共同体では先生は半ば絶対的な存在だが、
一歩学校の外に出れば先生はただの一人の人間に過ぎない。
絶対的な権利など持っていないのだ。
その外の共同体の常識に従えば、先生に絶対服従しなければいけない
という概念は否定すべきものなのだ。と。
あくまでも、他人の敷いたレールに囚われず、
自分の課題に立ち向かう勇気を持たなければならない。と。
そこで若者は問います。
じゃあ、課題の分離から共同体感覚にどのようにつなげていけば良いんですか?
哲人の、そしてアドラーの結論は"貢献感"だと言います。
自分には価値があると思えたときに勇気を持てる。そして自分は共同体にとって有益なのだと思えた時にこそ、自らの価値を実感できる。と。
さらにその有益かどうかの判断は、
行動のレベルではなく、存在のレベルで見なければならないと言うのです。
何をしているから有益なのではなく、そこにいるだけでありがたいのです。
その人のありのままでいるだけで、その存在そのものが尊く、有難いのです。
だからこそ、"ありがとう"という言葉が、唯一の勇気づけになる言葉だと言います。
そしてアドラーは、他人を褒めてはいけない。と言いました。
褒めることは、相手を見下した態度なのだ。
あくまでも、上下の関係ではなく、横の関係を築かなければならない。と。
確かに、褒めるというのは行動レベルで見ている証拠でもあります。
〇〇ができるから偉い、〇〇に成功したからすごいということです。
存在そのものに価値があると伝える言葉こそ、感謝の言葉なのです。
アドラーは、人の目を気にして相手の様子を伺い続けるのは
自意識過剰で身勝手な態度だと言います。
いやいや、人に合わせて相手のために行動しているのだから
むしろ他人想いな態度でしょう。
そう若者は反発します。
しかし哲人はこう言います。
相手の様子を伺う態度は、決して相手のためではなく、
むしろ自分が相手にどう映っているのか、自分のことをどう思っているのか、
嫌われてはいないか、という"自分のこと"ばかりに執着している態度である。
要するに、相手の中の自分のことしか考えていないのだ。と。
そしてこれも課題の分離に立ち返って考えると、
相手が自分のことをどのように考えているかは自分では変えられないことであり、
気にすべきことではない。と。
更に哲人はこう言います。
最終的には諦めることも大事である。と。
ただしそれは肯定的な諦めであり、
与えられたもので自分は何ができるかに重点を置いた諦めです。
何が与えられるかは自分では変えられないものであり、与えられたものです何をするのかが自分の課題なのです。
交換不要なありのままの自分を受け入れ、これからどうするかに注力する事をアドラーは"自己受容" と呼び、非常に重要な構え方だと言っています。
自分が自分の理想からどれだけかけ離れていようと、それがありのままの自分であり、
例え肯定できないとしても、ただ受け入れる。
受け入れた上で、何をするのかに重点を置くのが自己受容の考え方である。
物事の真理を見定めること、それが諦めなのです。
また、対人関係の基礎は信頼であると哲人は言います。
そして信頼とは無条件に信じることだとも言います。
無条件に人を信じるには自己受容が必要です。
自分にできること、人を信頼することを選んで行い、
相手の反応は他人の課題なので関与しない。
そうすることで良い対人関係が築かれるのです。
もし仮に裏切られたら悲しみや怒りが湧いてくるでしょう。
そうであればその事実を受け入れ、自分の課題に帰れば良いのです。
それでも悲しみが絶えなければ思うままに悲しめばいいのです。
また、人生の見方、考え方をライフスタイルと哲人は呼んでいて、
そのライフスタイルを相手によって変えるということは不可能だと言っています。
例えば会社にて上下関係、つまり縦の関係を気づいている人は友人とも横の関係を築くことはできないとも言っています。
なので対人関係というのは横の関係であると捉えていない限り、
誰が相手であっても横の関係など築けないのです。
今まで人生の考え方を様々な角度で語ってきた哲人ですが、
ここまでを振り返ってみると、
全て似たような話であったと感じるのではないでしょうか。
感じた通り、哲人は同じことを何度も語っており、
特にアドラー心理学の基盤となる課題の分離や共同体感覚については非常によく出てきます。
そして、その全てが繋がっているのです。
内容としては"課題の分離"、"共同体感覚"からさほど離れた内容は出てきません。
ただ対話によって話が進んでいくので、
あらゆる場面からそれら"抽象的な概念"を具体的に捉える助けとなっています。
正直一回読んで深く理解し、人生に役立てるような書籍ではないです。
あらゆる経験をしながら、人生をなぞるように何度もこの本を読み、思い出し、反省し、身につけていく内容だと思っています。
そしていよいよ大詰、結論に入っていきます。
哲人は言います。
人の悩みは全て対人関係の悩みである。そしてつまりは、
幸福についても対人関係によって生まれる。
更にこう続けます。
だからこそ、ここまでの内容を実践し、自分は共同体にとって有益であると感じることが必要なのです。
実際にどれだけ役に立っているのかは分からない、それは自分で決められることではなく、他者の課題である。
目に見えて貢献できていると分かっていなくとも、
自分は誰かの役に立っているという主観的な感覚、すなわち貢献感を持っていればそれでいいのだ。と。
つまり、幸せとは貢献感である。と。
ただし、忘れてはいけないのは、
他者からの承認によって得られる貢献感=幸福であってはならないということです。
承認欲求から得られる貢献感には自由がなく、本当の幸福とは言えないのです。
本当の貢献感があれば、いわゆる承認欲求など消えてしまうのです。
そして、人間は生まれながらにして優越性の求めています。
それは向上欲を促し、努力によって人間を成長させます。
しかし、それが上手くいかなくなると途端に態度を変え、
誤った方法で力を誇示しようとする場合があります。
それは失敗によって今までやってきたことが無駄になったと感じてしまうからで、
今やることに集中していないためです。
過去に囚われず、かつ未来の目標に執着し過ぎず、
あくまでも今に集中するのです。
これも、過去と未来は今は変えることができないという課題の分離です。
過去や未来に執着してしまうのは今に集中できていないからです。
今できることを真剣に、そして丁寧に生きろと哲人は言います。
今あること状況は練習でも準備期間でもなく、本番なのだ。と。
そして人生における最大の嘘は、今ここを生きないことだ。と。
未来や過去を言い訳に今を真剣に生きないことだ。と。
最後にアドラーが残した"人生の意味とは何か"を記して終わります。
人生の意味など何もない。それはあなたが自分自身に与える物だ。