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[世界史]第二次世界大戦1 ~開戦まで~

こんにちは。

 

だいぶ間が空いてしまいましたが....

今日は第二次世界大戦に触れていきたいと思います!

 

20世紀初め、第一次世界大戦という

恐ろしく大規模な殺戮が繰り広げられ、

人々は恐れに震え、その後には多くのものを失った悲しみに明け暮れました。

 

それにも関わらず、

己の利益と空虚なプライドのために人類は同じ過ちを繰り返したのです。

 

第二次世界大戦概要

一般的には、

1939年9月の英独戦争から始まり、

独ソ戦争太平洋戦争を経た後、

1945年ドイツと日本の降伏によって終了したと言われています。

 

第一次世界大戦はヨーロッパが戦地となり、

終始ヨーロッパで戦いが繰り広げられました。

 

それに対し第二次世界大戦では太平洋でも戦争が勃発し、

その火は世界中に及びました。

 

そして第一次世界大戦同様、

各国の思惑が入り乱れることで事態は複雑化しました。

戦争が長引くに連れて各国の事情と思惑に基づいて同盟が結ばれては廃棄され、

最終的に世界中を巻き込む大戦争へと発展していきました。

 

ベルサイユ体制

第二次世界大戦の背景はつまり、

"第一次世界大戦後に世界情勢がどのようになったか"

ということになります。

 

そしてそこにはベルサイユ体制という言葉が

最重要ワードとしてあげられるでしょう。

 

第一次世界大戦後、ベルサイユ条約が結ばれ、

敗戦国であるドイツが戦争の責任を負うような形となりました。

 

ドイツは領土と植民地を失い、

とんでもない額の賠償金を課され、

まさに首が回らない状況に立たされたのです。

 

1923年には賠償支払いの遅れを口実に

フランスがドイツ経済の中心部であったルール地方を占領。

ドイツ経済は崩壊し、ヒトラー率いるミュンヘン一揆が起こるなど

革命的危機に陥りました。

 

ドイツの経済復興には賠償問題を

どうにかしなければなりませんでしたが、

打つ手がない状態。

 

そんな中、第一次世界大戦で被害をほとんど受けなかった

アメリカが1924年にドーズ案をまとめました。

 

その内容はアメリカ資本によってドイツ経済を再建させ、賠償金を支払い、

フランスとイギリスはその支払い額を第一次世界大戦中に負った

アメリカへの借金返済に充てるというものです。

 

ドイツはもちろんのこと、フランスやイギリスにとっても

借金を返済し、経済を再建するのに他に手はありませんでした。

アメリカにとっては経済的ダメージがないだけでなく、

大国に恩を着せることができるまたとないチャンスです。

 

ドイツに対して強硬的態度を取っていたフランスは

この事態に政治的、経済的立場を弱くし、覇権を失うことなりました。

 

一方ヨーロッパ全体としては経済が安定し、

政治的緊張感が緩和されました。

 

ドイツとフランスはその国境を保証するロカルノ条約を1924年に締結し、

翌年1925年にはドイツは国際連盟に加盟します。

さらに1928年には戦争の放棄を掲げた不戦条約が締結されました。

この年代は黄金の20年代と呼ばれ、世界に平和と繁栄をもたらしました。

 

しかしこの繁栄もつかの間、

1929年末にはニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけに世界恐慌に陥ります。

世界恐慌については割愛しますが、

間違いなく大戦の大きな要素であると言えます。

 

東アジアの情勢

第一次世界大戦の戦勝国である日本とイタリアにとっても

ベルサイユ条約は満足のいく条件ではありませんでした。

 

戦争に大きく貢献したアメリカ、イギリス、フランスの

妥協点として制定されたため、

三国に有利な内容となっていたのです。

 

さらに世界恐慌の大打撃を受けた日本は政治的にも経済的にも危機に陥り、

1920年代に満州支配に踏み切ります。

 

1931年に軍部の策略で満州事変を起こし、

翌年1932年には満州国を樹立。

しかし国際連盟はこれを否認します。

日本も国際連盟加盟国でしたが、これを機に連盟を脱退します。

 

世界恐慌は世界中に及び、国際連盟としても

日本の満州侵攻に措置を取る余裕がありませんでした。

 

列強各国も民族運動や中国の反帝国主義運動の激化を恐れ、

何もできませんでした。

 

各国が事実上黙認したことで、日本軍および帝国主義勢力は一気に増長し、

軍国主義化が加速しました。

また動きはある勢力のトリガーともなりました...。

 

アドルフ・ヒトラー

第二次世界大戦は第一次世界大戦と

異なると言われている点があります。

 

まず第一次世界大戦は勃発とかなだれ込んだ

という言葉が使われます。

 

サライェボ事件という突発的(厳密には黒手組によって計画されたものだが)な

事件が火種となり、周辺国で一気に宣戦布告からの戦争勃発という流れが起こります。

 

それに対し、

第二次世界大戦では引き起こされたという言葉が使われています。

 

意図的に、そして計画的に引き起こされたというのです。

そしてその意図的に、計画的に戦争を引き起こした人物が

何を隠そう、ヒトラーなのです。

 

1933年1月に成立したヒトラー政府は、

日本の満州侵略に対する国際連盟の無力さ見て、

同年10月に軍縮会議と国際連盟から脱退

 

他国との軍備平等権がないという理由での脱退で、

明らかにドイツが再軍備に乗り出したことを意味していました。

 

1935年3月には再軍備事実を隠せなくなり、

ドイツはベルサイユ条約の軍備制限条項を廃棄。

再軍備を宣言しました。

 

同年5月に仏ソ相互援助条約が締結された際に、

これが西欧とドイツとの対立を深め戦争を引き起こしかねない

としたイギリスがドイツと妥協点を探り合い、

ドイツへの刺激を緩和させようとしました。

 

翌月6月にはイギリス・ドイツ海軍協定が成立。

ベルサイユ条約にある英:独の海軍力比を100:35に修正し、

ドイツの再軍備を事実上容認しました。

 

これはドイツへの刺激を最小限に抑えるための策略だったのですが、

ドイツの軍備の勢いはイギリスの予測を遥かに上回ってしまったのです。

 

ベニート・ムッソリーニ

1933年のドイツによる国際連盟脱退

イタリアにとっては不測の事態でした。

 

イタリアのファシズムはドイツのナチズムの模範としていたにも関わらず

ドイツから何の相談もなく、1933年6月に仮調印していたイギリス・ドイツ・フランス・イタリアの四国協定もこれによって消滅してしまったのです。

 

この四国協定にはイタリアの植民地獲得の承認も含まれていたため、

その事実も消滅してしまったのです。

 

なによりムッソリーニは予てから

地中海帝国建設を目論んでいました。

 

そんな中1935年1月のフランスとの会談で

エチオピア侵攻がフランスからは黙認されたと判断。

 

さらに同年4月のイギリス・フランス・イタリア首脳によるストレーザ会議でも、

イギリス・フランス勢は対ドイツに専念するため

イタリアには妥協的であると判断します。

 

そしてついに同年10月、

イタリアはエチオピア侵攻を開始します。

 

日本の満州侵略に次ぐ第二の武力行使でしたが、

国際連盟としてはこれを見過ごせずにイタリアを侵略国とし、

連盟規約第16条による経済制裁の措置を取ります。

 

ただしイギリス、フランスともに強く出ることはできず、

石油の禁輸には踏み切りませんでした。

 

1936年6月にはエチオピア皇帝がイギリスに亡命し、

イタリア軍は首都アディス・アベバを占領。

ムッソリーニは新ローマ帝国の成立を宣言しました。

 

このことで国際連盟の信頼は地に落ち、

英仏とイタリア間の対立は激化します。

 

そしてドイツにとってはこの状況は

非常に都合がいいものでした。

 

1936年3月、仏ソ相互援助条約が批准されようとしている

という口実の下に

ラインラント非武装地帯(ベルギーとドイツの国境付近)に進駐。

ドイツの主権回復を図ると同時にベルサイユ条約を事実上廃棄しました。

 

ファシズム

ここで一度

ファシズムが一体何なのかを整理しておきます。

 

簡単にいうと、

第一次世界大戦後の1920年頃から

第二次世界大戦が終結した1945年までの間に出現した

強権的で独裁的な非民主的政治思想、体制のことです。

 

ヨーロッパを中心に広がった思想ですが、

特にファシズム政権を確立させ、

民主主義を掲げた連合国を敵として戦争を行った

イタリア、ドイツ、日本の三カ国がファシズム国家の典型とされました。

 

ファシズムの強硬的な考えが広まった原因は

第一次世界大戦後に経済的・政治的危機に陥ったこと、

そしてソ連に誕生した社会主義国家の存在が各国の脅威となったことです。

 

イギリスやフランスといった列強国に比べ

近代国家の形成が2、3世紀遅れたイタリアとドイツは

植民地の取得競争に大幅に乗り遅れたため、

必然的にその経済的な基盤が強くありませんでした。

 

さらに第一次世界大戦によって大打撃を受け

失業やインフレの問題が後を絶たなくなり、

国家も国民も経済的窮地に立たされていました。

 

そこで排外主義的な思想が強くなり、

強力なリーダーシップによって経済成長というゴールを目指す

とした政治思想を持つようになりました。

これがファシズムです。

 

ファシズムと相反するのが

ロシアのレーニンの下で広まった社会主義ですが、

こちらも同じく資本主義の経済的危機から脱出するための策略です。

 

ただし社会主義は

労働者(階級)を支援し、個人の労働力によって豊かになるという

自由主義的な考え方です。

 

一党独裁による民族主義的な考え方を持つファシズムとは

相容れない概念でした。

 

ファシズムを掲げた国は社会主義の拡大を恐れ、

反社会主義、反共産主義を掲げて

極端な国家主義を強調し出しました。

 

そして帝国主義(ファシズム)と社会主義が

互いに敵対する概念の拡大を恐れて

牽制し合ったのです。

 

先ほどドイツと日本がイタリアと並ぶファシズムの典型的国家と述べましたが、

ドイツではナチズムと呼ばれ、また日本では天皇制ファシズム(全体主義)と呼ばれ、

少しずつ違った概念を持っていました。

 

反ファシズム運動

ファシズムについて整理したところで

社会主義国における反ファシズム運動についても触れたいと思います。

 

ヨーロッパの知識人たちは、

ファシズムと社会主義間の争いに関して

早い段階で警鐘を鳴らしていました。

 

1926年には

アンリ・バルビュスとロマン・ロランが

国際反ファシズム委員会を結成し、

 

1929年には

アインシュタインらと

最初の反ファシズム大会をベルリンで開催。

 

1932年には

世界反戦大会がアムステルダムで開かれ、

戦争とファシズムに対する反対決議を採択しました。

 

ドイツでのナチズム優勢、

パリのファシスト暴動発生、

オーストリアのドルフース独裁成立など、

各国でファシズム勢力が拡大していくと、

反ファシズム運動もさらに活発になっていきました。

 

1935年頃にはコミンテルンと呼ばれる世界大会が頻繁に開催され、

民主主義の拡大と戦争反対のための人民戦線戦術が採択されました。

 

スペインでは1936年の総選挙を前に

共和主義を掲げる政党と社会党、共産党の間に

人民戦線協定が結ばれ、総選挙に勝利。

共和諸党から成る人民戦線政府が成立しました。

 

同じくフランスでも同時期に同じようなことが起きています。

 

スペイン内戦

スペインの人民戦線政府が成立して半年も経たない1936年7月、

フランコ将軍による人民戦線政府に対する反乱が勃発します。

 

ドイツやイタリアも直ちにこのフランコ将軍を支援し、

特にヒトラーはスペインに戦略的な拠点を得ようとしました。

 

人民戦線政府側もフランスに支援を依頼し、

フランスはこれを承諾しますが、

ファシズムとの戦争を恐れたイギリスがフランスに圧力をかけ、

共に不干渉という立場をとることにします。

 

同年9月にはドイツとイタリアも巻き込んで

不干渉委員会が結成されますが、

反乱軍側の勢力は増していく一方でした。

 

ソ連はこれを不当と判断し、

人民戦線政府への武器援助を開始。

国際的な反ファシズム運動も人民戦線政府を支持しました。

 

この対立が第二次世界大戦の基本的な構図であり、

この思想の違いと各国のエゴによる争いこそが

第二次世界大戦なのです。

 

イギリスの不干渉政策

ドイツ・イタリア側に宥和的だったため、

これを認めたヒトラーは1936年に駐英大使を任命。

英独同盟の実現に努めます。

 

ただその一方で、

同年8月には経済4か年計画という、要するに戦争準備に取り掛かります。

 

イタリアもエチオピア侵略スペイン内戦でのフランコ将軍支援によって

イギリス・フランス側との対立を強め、

ドイツに接近を試みました。

 

1936年11月の演説でムッソリーニは

ドイツとイタリアによる枢軸(政治の中心を意味する)を掲げました。

 

日中戦争

日本は満州国を成立させたものの、

そこから軍事的、経済的な進展は生まれず、

行き詰ってしまっていました。

 

そこで華北に目を付け、侵攻を試みますが、

中国共産党はこれに対し8・1宣言を発表し、

内戦なんかしている場合じゃない!今こそ一つになって日本を討とう!

と訴え、抗日救国運動は一気に拡大。

 

さらに蒋介石によって結束した

抗日民族統一戦線が結成され始めると、

日本軍部は華北の兵力を増強し、

1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まりました。

 

先ほど述べたように、

ヨーロッパ諸国はヨーロッパ諸国の緊迫した状況に手一杯で

日中戦争に構っている余裕はなく、

アメリカも不承認主義の原則に準え特に動きを見せませんでした。

 

ミュンヘン協定

1937年11月、

これまで戦争準備を進めてきたヒトラーがついに動きを見せます。

 

生存圏獲得のために

まずはチェコスロバキアとオーストリアを倒そう

というもので、

これを政策として宣言したのです。

 

軍首脳は世界戦争勃発を恐れ反発しましたが、

1938年頭にヒトラーはこの軍首脳を更迭。自らが国防軍を統帥します。

 

同年2月にはオーストリアに最後通牒を突きつけ、

3月にオーストリアを併合。

 

さらにヒトラーはチェコスロバキアの併合に手を付け、

現在でいうチェコにあるズデーテン地方のドイツ人に自治運動を促した後、

同年9月12日にはニュルンベルク党大会武力行使による併合意思を表明。

 

この戦争危機を前にイギリスのチェンバレン首相

9月15日にヒトラーを自ら訪問。

ズデーテン・ドイツ人の議決権を認めた上で

フランスと共にチェコスロバキア政府に圧力をかけます。

 

さらに22日チェンバレン首相はヒトラーを再訪しますが、

ヒトラーは要求をさらに吊り上げ即時占領容認を要求。

28日を期限にドイツ軍の進撃を開始すると脅迫します。

 

しかしここでムッソリーニが介入。

9月29日と30日にミュンヘンで開催された

イギリス・フランス・ドイツ・イタリアの四国会談で、

ズデーテン地方をドイツに割譲するという内容の

ミュンヘン協定を成立させました。

 

チェンバレンはミュンヘン協定の成立により戦争を免れたことを

我が時代の平和と呼び自賛しましたが、

他国を犠牲にしただけの非常に身勝手なものでした。

ヒトラーの暴走

ここからヒトラーの暴挙は加速していきます。

 

1939年3月14にはチェコスロバキア大統領であるハーハを脅迫し、

チェコスロバキアを解体の上、15日に占領します。

 

その翌日16日にはボヘミアとモラビアを保護領とし、

さらに21日、ポーランドには

現グタニスクであるダンツィヒの割譲を要求しました。

 

チェコスロバキアの解体には

政治的には民族的にも合理的な理由はなく、

それらを黙認したイギリス政府を世論は激しく非難しました。

 

3月31日にチェンバレンはポーランド主権を保証する声明を出し、

ドイツを牽制します。

 

しかし4月3日、

ヒトラーは9月1日までにポーランド攻撃の準備を整えるよう、

軍に命令を出します。

 

イギリスが徴兵制を決定すると、

同月28日にヒトラーは

独ポ不可侵条約(1934年締結)とイギリス・ドイツ海軍協定(1935年締結)

廃棄を宣言。

 

さらに5月22日にイタリアとの軍事同盟条約である

鋼鉄条約を結びました。

 

ここからイギリス・ドイツ間の駆け引きと

アメリカやソ連を含む各国の動きが

さらに複雑に入り乱れ、大戦争へと拡大していきます。

 

この時のチェンバレンの政策については

様々な意見がありますが、

 

チェンバレン、ヒトラー、ムッソリーニがどのような政策を

取っていくのか、

 

ここまであまり介入してこなかったアメリカやソ連がどのように

動いてくるのか、

 

次の章で書いていきたいと思います。

 

長くなりましたが

ここまで読んでいただきありがとうございました!

引き続きよろしくお願いします!