こんにちは。
最近近代史に興味をもって
色々調べたりして勉強しているのですが、
どうせなら学んだことを
ここにアウトプットして残してみよう
と思いまして、
それを実行させていただきます。
最初は第一次世界大戦編です。
とは言えですね、
情報量もそもそも多くて
どこから話を始めたらいいのかが
非常に難しいんですよ。
自分の文章力も足りないのですが、
どこから繋がっているか
その原点を辿ろうと思えば
いくらでも遡れてしまうのです。
なのでとりあえずシンプルに
第一次世界大戦がいつどのように起こったのか
というところから話していこうかと思います。
1914年7月28日から
1918年11月11日の間に起きた
人類最初の世界的大戦争なのですが、
実はこの歴史的大戦の
トリガーとなったは一人の青年なんです。
言ってしまえば
もともと各大国同士で
ピリピリしあっていたのですが、
ある出来事をきっかけにその戦いの火蓋が切られました。
その出来事とは1914年6月18日に起きた
サライェヴォ(サラエボ)事件
と呼ばれる事件です。
オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公と
その妻ソフィー大公妃が、
併合国であるボスニアの州都
サライェヴォで暗殺されるという事件です。
夫妻は軍隊の閲兵を行うため、
オープンカーで会場に到着しました。
運転手が車を止めた時、
たまたま後ろにいたセルビア人の
ガブリロ・プリンツィプが大公を射殺。
彼は続けて護衛を狙いますが、
逸れた弾が大公妃に直撃し、
大公妃も即死だったそうです。
たまたまいたセルビア人?どういうこと?
となるのは当然のことです。
厳密に言うと全くの偶然ではありません。
実はこの青年プリンツィプは、
母国セルビアが奴隷のように
扱われていることに憤慨し、
秘密結社、通称黒手組に参加していました。
彼の目的は大公の暗殺でしたが、
首領のアピスという人物の目的は
セルビア政府への嫌がらせだったらしいです。
そして事件当日、
他の仲間も大公の射殺を試みますが
いずれも失敗。
そして偶然大公夫妻の乗る車が
プリンツィプの目の前で止まり、
彼が実行犯となりました。
彼は未成年だったため死刑は免れ
懲役20年を言い渡されますが、
持病を患っていたため懲役期間中に病死しました。
ちなみにボスニア・ヘルツェゴビナは
1908年、オーストリア・ハンガリー帝国に
併合されています。
その際に当然原住民である
スラブ系民族は反対し、
それをきっかけにスラブ系民族による
民族国家を設立する思想が強くなっていきました。
この思想は大セルビア主義と呼ばれており、
オーストリア・ハンガリー帝国の
パン・ゲルマン主義とは
もちろん対立の関係でした。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナが
併合されたころ、
近隣諸国でも動きがありました。
1912年、大スラブ主義を掲げる
バルカン半島の諸国が
オスマン帝国に対する共同防御策として
バルカン同盟を結びます。
同盟参加国は
セルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシア
の4か国です。
オーストリア・ハンガリー帝国やオスマン帝国の
バルカン半島への進出を阻止する目的で
ロシアもバルカン同盟を支援しました。
そして同じく1912年、
アルバニアの反乱を機にバルカン同盟諸国が
オスマン帝国に宣戦布告し、
第一次バルカン戦争を起こしました。
この戦争に負けたオスマン帝国は
バルカン半島の領土を失い、
アルバニアの独立も承認されました。
バルカン同盟がこの戦争に勝利し、
翌年1913年5月に結ばれたロンドン条約では
元オスマン帝国領のマケドニアを
バルカン同盟諸国で分ける形となります。
しかしこの分配に納得のいかなかった
ブルガリアが同年6月に、
同盟国であるセルビアとギリシアに侵攻。
第二次バルカン戦争が勃発します。
ブルガリア単独の強大化を恐れた周辺国は
セルビアとギリシアを支援したため、
ブルガリアは完全孤立化し
2カ月で敗北を喫します。
そして同年8月に
ブカレスト講和条約が締結され、
ブルガリアは縮小を余儀なくされました。
バルカン同盟諸国が掲げていた
大スラブ主義ですが、
オーストリア・ハンガリー帝国が
ボスニア・ヘルツェゴビナを併合した際に
被害にあったスラブ系民族が発起し、
この思想がさらに加速します。
そしてボスニア•ヘルツェゴビナに住んでいた
セルビア人を中心に
スラブ人の統一国家を作ろうという思想が
大セルビア主義なのです。
このバルカン半島での一連の動きは
バルカン問題と呼ばれ、
常に周辺国同士ピリピリした
状態ではありました。
話をサライェヴォ事件直後に戻しましょう。
大公夫妻を殺害され当然怒った
オーストリア・ハンガリー帝国の
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、
サライェボ事件は大セルビア主義を掲げる民族と
その背後にいるセルビア政府による陰謀だ!
として、
ドイツ帝国(ヴィルヘルム2世)の承認を受けた上で
最後通牒をセルビアに出します。
※最後通牒...これが最後の警告だ。というお達し。
しかしセルビアにこれを拒否され、
サライェヴォ事件の翌月1914年7月28日、
宣戦布告をします。
これが第一次世界大戦の始まり
とされています。
え?だったらセルビアと
オーストリア・ハンガリー帝国の間の戦争じゃ?
と思うかもしれません。
しかし先ほどのバルカン問題があるように
各国の思惑が交錯し、
そこから徐々に、いや一気に
大戦争へと拡大していくのです。
さて、2か国間の戦争でしたが
その他で最初に動きを見せるのはそう、
ロシア(ニコライ2世)です。
バルカン同盟の時と同じように、
オーストリア・ハンガリー帝国の
拡大を警戒していたロシアは
セルビアを支援する為軍隊を送ります。
それに気づいたドイツが
ロシアに最後通牒を通達しますが、
ロシアはドイツに宣戦布告します。
その開戦は必然的に
ドイツと敵対していた
フランスを巻き込みました。
ドイツとしてはフランスには
中立でいて欲しかったのですが、
フランスはその要求を拒否し、
ドイツに宣戦布告します。
そしてドイツから
フランスへの侵攻を開始します。
ただ途中で中立国であるベルギーを
渡る必要があったため、
8月2日に通過の許可を要求しますが
ベルギーがこれを拒否。
拒否されたドイツは
4日にはベルギー国内へ侵攻します。
ドイツが中立国に侵攻したことに
怒ったイギリスもベルギーを支援しました。
しかしドイツは6日にリエージュを包囲し
立て続けに砲撃と空爆を行います。
ベルギー軍は16日まで持ちこたえたが敗北し、
ドイツ軍の進軍を許す形となりました。
同年9月、ドイツ軍は遂に
フランスに侵入しますが、
すぐにイギリスの偵察機がそれを発見します。
発見の知らせを受けた
フランス軍がドイツ軍を急襲し、
ドイツ軍の侵攻を阻止しました。
この戦いはパリの東側に位置するマルヌ川付近で行われたことからマルヌの戦いと呼ばれています。
そしてマルヌの戦いの最中、
ロシア軍が東方から
予想以上の早さで迫ってきている
という知らせを受けた
ドイツの総司令官モルトケは
兵力を移動させるために
ドイツ軍を後退させました。
こうして6週間でパリを陥落させる
というドイツ軍の当初の作戦は崩れ、
長期戦へともつれ込んだのです。
ドイツとフランスの国境には塹壕が彫られ、
いわゆる塹壕戦に突入します。
更に新戦術として毒ガスが開発され、
残酷な戦いへと変貌していきました。
ロシアは8月17日の時点で
ドイツ領東プロイセンにまで
進撃していましたが、
徐々に補給不足と通信の不備が露呈し、
タンネンベルクの戦いでドイツ軍に敗れます。
ドイツ軍のヒンデンブルク隊長と
ルーデンドルフ参謀長は
ロシア軍の無線を傍受してその進路を察知し、
列車を使って大軍を移動させて
勝利を導いたと言われています。
このロシア軍の敗北は
ロシア革命の警鐘になった
とも言われています。
東部戦線と呼ばれる戦いには
含まれないようですが、
オスマン帝国も1914年10月に同盟国に付き、
戦いを繰り広げています。
オスマン帝国に隣接する黒海とエーゲ海は
ロシアと連合国各国の連絡路として
重要な役割を担っていた為、
オスマン帝国が同盟国側につくことは
連合国にとっては非常に都合が悪かったのです。
そこで連合国であるイギリスの
海軍大臣ウィンストン•チャーチルは
オスマン帝国のガリポリ要塞を
占領する作戦を立てました。
その作戦を基に1915年4月25日、
オーストラリアとニュージーランドの連合軍(ANZAC)は連合国に参加します。
しかしオスマン帝国は善戦し、
その間の1915年10月14日には
ブルガリアも同盟国側に付きます。
さらに同年12月には
セルビア軍がオーストリア軍に敗れます。
そうしてオスマン帝国が同盟国の諸国と
連絡が取れるようになったことで
連合国のガリポリ作戦は失敗に終わり、
翌1916年1月には撤退することとなりました。
その代わりに連合国はギリシアを説得し、
連合国に付かせることに成功しています。
ちなみに連合国は英仏露の同盟から協商国とも呼ばれています。
第一次世界大戦の中でも
最大の戦争と呼ばれる戦いが
1916年2月から6月にかけて
フランスとベルギーの国境付近で行われました。
ドイツ軍はフランスに総攻撃を図りますが、
フランスはそれを総力を掛けて
これを阻止することに成功します。
結果的に死者数合計が
およそ60万人という
凄まじい戦いとなりました。
ヴェルダンの戦いの直後、
フランスのソンムで、
イギリスとフランスの連合軍が
ドイツ軍を総攻撃しました。
イギリスのヘイグ将軍は
まだ実験段階だった戦車を
初めて実戦に導入しましたが、
この戦闘はかなりの消耗戦となります。
合計で100万人以上の死傷者を出すものの
結局勝敗が付かないまま11月に終わりました。
この戦いで多くの人間が
戦争への意欲を失ったとも言われています。
当たり前ですよね。
これだけの人間が戦死し、
多くの人が友人や家族を亡くしたことでしょう。
むしろこの悲惨な戦いの後にも
戦争が続いたことの方が驚きです。
ヴェルダンの戦い、
ソンムの戦いを合わせると
ドイツ軍だけでも70万人以上が
命を落としています。
確かにヨーロッパにおける
悲惨なこの戦いの規模は
とんでもないものだったと思います。
残酷な兵器が開発され、
考えられない規模で人が亡くなりました。
ただ、世界大戦は
更に広範囲に広がります。
ヨーロッパだけにとどまらず、
この戦争は更に広い範囲に飛び火していくのです。
そしてその火は海から広がりました。
元々艦隊を有していたイギリスとドイツですが、
開戦当初制海権を握っていたイギリスが、
ドイツのバルト海進出を
実質不可能なものとしていました。
唯一太平洋に出て活動していたドイツ東洋艦隊も
1914年12月に大西洋でイギリス軍に敗れ
撃沈しています。
しかしその後
陸上の戦いが膠着状態になると、
食料を輸入に依存しているイギリスを叩くため、1915年5月にドイツ軍が
再度海上決戦に挑みました。
最初の海上の戦いであるユトランド沖海戦では
イギリス軍による海上封鎖網を
打開するまでには至りませんでしたが、
ドイツ軍は潜水艦による
無差別魚雷攻撃(無制限潜水艦作戦)を行い、
無防備な商船を次々に潰すことで
イギリスへの輸送を止めました。
この無差別攻撃は第三国、
特にアメリカから批判を受け
ドイツ軍は一度は止めたものの、
1917年2月に無制限潜水艦作戦の再開を宣言し、
アメリカの連合国への参戦を
誘発することになります。
イギリスではドイツから商船を守るため、
ロイド・ジョージが
輸送船団方式(コンボイ・システム)を考案し、
被害を激減させました。
また、地中海ではドイツ海軍と
フランス・イギリス海軍は交戦しており、
黒海でもロシア海軍とオスマン海軍が
交戦していました。
1917年2月には
日英同盟を結んでいる日本海軍にも要請が入り、
日本は地中海に合計15隻の軍艦を派遣しました。
1914年、イギリスはオスマン帝国に対し
エジプトの保護国化を通告し、
スエズ運河を確保します。
そしてカイロを拠点に
パレスチナへの進出を図りました。
エジプトはオスマン帝国を宗主国としながらも
イギリス領だったため、
敵となったオスマン帝国への侵攻拠点として
カイロをこれからは遠慮なく使わせてもらう
という意味での通告でした。
1916年5月、
イギリスはフランスと
サイクス•ピコ協定を結び、
戦後のオスマン帝国領分割について協定しますが、
1917 年11月にバルフォア宣言を出し、
ユダヤ人によるパレスチナ建国を承認します。
この2つは
イギリスへの見返りを生む為の物でしたが、
サイクス•ピコ協定では
パレスチナは戦後フランス領になる
という内容のため、矛盾が生じてしまいました。
更にいうと、
イギリスはアラブ人に対しても
エルサレムをオスマン帝国から取り返し
アラブ人による国を創ることを
約束していました。
パレスチナ問題は
このイギリスの矛盾外交で状況が激化した
と言っても過言ではないでしょう。
いずれパレスチナ問題についても
触れたいと思います。
先程も少し触れましたが、
日本も第一次世界大戦に参戦しています。
日英同盟に基づきイギリスは
日本に東シナ海のドイツ艦隊への攻撃要請をし、
日本は直ちに出兵を開始しました。
しかし日本が中国や太平洋に
進出するきっかけになることを警戒した
アメリカがイギリスに対し
この要請を撤回するよう求めたのです。
イギリスは撤回要請を承諾し、
日本に対する出兵要請の取り消しを指示しますが、日本側が攻撃を強行し、
ドイツ軍に最後通牒を出します。
更にこれを無視されたとして、
ドイツ軍の青島要塞を攻撃、
陥落させてしまいます。
その後太平洋にあるドイツ領を次々と占領し、
中国に対しても二十一ヵ条要求を突き付けます。
簡単に言うと、
元々ドイツが握っていた中国の支配権を
日本が継承することを認めよ。
という内容です。
但しこの二十一ヵ条要求が元凶となり
後でややこしい事になります。
二十一箇条要求は
中国に向けたものですが、
実はイギリス、アメリカ、フランス、ロシア
にも事前に見せていました。
二十一ヵ条要求と言っても
大きく5項に分けられており、
1項から4項は戦争の対価として妥当だと
列強諸国は判断していました。
しかし上記の列強諸国には
5項目の存在を意図的に隠されていたのです。
5項目には
日本が中国を保護国化する意図
が含まれており、
列強の既得権や、
アメリカの中国に対する考え方である
門戸開放、機会均等、国土安全
という原則に反するものであるため、
日本が隠していたのです。
ただ中国政府に対してだけは
5項目も含めて掲示し、
権利の承認を迫りました。
そしてそのことを知った中国政府は
第5項を強調して宣伝し、
各国が日本に問い詰める事態となったのです。
中国政府に対する交渉は難航しました。
その結果として結局第5項を取り消し、
中国政府に2日間を期限とした
最後通牒を出すことになります。
中国はやむを得ず1項から4項を承諾し、
日本は山東省の権益などを獲得しました。
こんな世界中で大戦争が行われる最中、
ロシアでは国内で革命が起きました。
1917年3月に起きた二月革命(ロシア暦)で
ツァーリ政権が倒され、
臨時政府とソヴィエトの2大権力となります。
臨時政府は戦争に意欲を示しましたが
ソヴィエト側はこれに反対していました。
このときスイスに亡命していた
ソヴィエトの指導者レーニンを
ロシアに帰国させるべく、
ドイツ国内を通行できるように手配し、
帰国したレーニンは臨時政府打倒
に向けて動き出します。
同年11月にはレーニンに働きかけられた
ボリシェビキが十月革命(ロシア暦)を起こし、
遂に臨時政府を倒すことに成功します。
ソヴィエト単独政権となったロシアは
平和についての布告を発表し、
できるだけ穏便に済ませられるよう
列強諸国働きかけましたが、
列強諸国はこれを無視していました。
ただドイツだけはこれを好機と見て1918年3月、
両国間でブレスト•リトフスク条約を結び
単独講和を成立させます。
ロシアはポーランドの独立を含む
領土の縮小をも承諾していました。
そしてもう一つ大きな契機となったのは、
開戦当初から中立を貫いていた
アメリカの参戦です。
中立とは言っても、
列強諸国に武器を売り大儲けをしていました。
第一次世界大戦で唯一得をしたのは
アメリカだとも言われています。
しかしドイツにアメリカ商船が
攻撃されたことを受けて
国内で参戦の声が高まり、
前述した無制限潜水艦作戦の再開を機に
1917年4月、ウィルソン大統領が
参戦の決断をします。
また、同年11月にレーニンが発表した
平和についての布告に対抗し、1918年1月には
戦争目的の明確化と戦後処理の原則を示す
十四ヵ条を発表しました。
前述したようにロシアは
戦争への加担を実質止めたわけですが、
当然それをよく思っていない国もありました。
同じ連合国側にいたイギリスやフランスです。
そこで両国はロシア革命への干渉を企て、
1918年3月にはアメリカ軍と共に
ムルマンスクに上陸。
反革命政権を支援する為に
対ソ干渉戦争を起こします。
日本軍も同年4月に
単独でシベリアに上陸しています。
そしてロシア捕虜となっている
チェコ・スロバキア軍の支援という名目で、
4カ国は同年8月にシベリア出兵へと
踏み込みました。
ロシアとの単独講和によって
東部戦線に必要なくなった分の兵力を
西部戦線に送り込もうとしますが、
なかなか順調に進みませんでした。
そうこうしてるうちに1918年8月8日、
フランス北部でアメリカが参加した連合国に
敗れてしまいます。
バルカン半島においても
ブルガリアが9月に停戦に応じ、
オーストリアも戦意を喪失。
オスマン帝国についても
イギリスのパレスチナ進出や
アラブの反乱により
10月に停戦に追い込まれました。
そんな中、
軍力の弱まったドイツで反乱が起きます。
1918年11月3日、
無謀な出兵命令に嫌気が差した海軍兵士が
キール軍港の水平反乱を起こし、
それをきっかけにドイツ革命が勃発しました。
結果としてドイツ政府は
停戦の決断を迫られ、
皇帝ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命。
帝政が崩される事態となりました。
その後
臨時政府の権力を握ったエーベルトが
1918年11月11日、フランスにて
連合国側と停戦協定を結び、
第一次世界大戦を終わらせたのです。
1919年にはパリ講和会議が開かれ、
外交の原則や軍備の制限などを盛り込んだ
ヴェルサイユ条約が成立しました。
なお、このヴェルサイユ条約には
日本の二十一ヵ条要求にあった
山東省権益の継続を
認める内容が含まれていたため、
中国はヴェルサイユ条約に調印しませんでした。
実際には政府は調印を指示していましたが
国内での五•四運動を知った
中国代表の顧維均が
独自の判断で調印を止めたそうです。
アメリカにおいても
共和党にて調印が否決されたため
ヴェルサイユ条約には調印しておらず、
代わりにドイツとは単独で
講和条約を結んでいます。
実はヴェルサイユ条約自体が
ドイツと連合国の間で結ばれた条約であり、
同盟国の他の国々に対しては
それぞれ別個に条約が結ばれました。
偶然なのかヴェルサイユ条約は
サライェヴォ事件と同じ6月28日に
締結されています。
ちなみに終戦に向かい始めた1918年春頃に
スペイン風邪と呼ばれる
インフルエンザ大流行し始め、
ヨーロッパを中心に
世界中で15万人の死者を出しました。
このことも終戦への圧力になった
と言われています。
実はスペインが発生源と言うわけではなく、
中立国だったスペインが
放送規制をしていなかった為に
スペインで流行ったのだと
勘違いされただけのようです。
こうして終戦を迎えた第一次世界大戦ですが、
ご存知の通り悲劇は繰り返されます。
多大な数の人が命を落とし
戦争の恐ろしさを知ったはずなのに
何故人間は惨劇を繰り返したのか。
次回は第二次世界大戦に触れたいと思います。
ではでは。